備前も何度かブームのような時期があり、ある程度は現在の備前は広く認識されているものと思ってましたが、現在でも「このような備前焼を見たことないです」とご感想をたくさんいただくことがあり、こちらが驚くことがございます。
備前の中でも、伝統派、革新派、いろいろなスタンスの作家がおり、私はどちらも好き(厳密に言うと、良いものであれば、どちらとか気にしない(気にしても意味がない))ですので、好きな空間で好きなものを好きなように使って楽しむことができれば良いと思ってます。
一番大切なことは、”温故知新”であり、両方のバランスをしっかり実行していることではないでしょうか。不思議と温故派、知新派に別れることが多く、分裂していることが私にはよくわかりません。この言葉の通りであり、付け足すことはなく、ただ実行するのみです。
和紙と聞いて頭の中に浮かぶイメージや、障子や格子と聞いて頭に浮かぶイメージは人それぞれですが、結構決まりきったイメージを想像される人が多いように感じます。それは買い手だけでなく、実は作り手や売り手にこそ固定観念がギッシリと詰まっており、これはこうでないとダメとか、これが常識!とかで済まされ、本来のここをこうすればよりよくなるとか、より洗練されて見えるとかが二の次になってしまっているように感じます。固定観念に疑問を持つことをやめてしまうと進歩は止まってしまうように感じます。
一番の問題点は、その固定観念で作られたものや、利便性ばかりを追求したものが溢れかえってしまった今日において、それをフレッシュな眼差しで見た若い人の心になかなか響きにくいものになってしまっていることが多々あることです。それが繰り返されると、本来魅力的であったものがつまらないものに見えたり、ペカペカなものになってしまっていて、衰退してしまうことは当然なことです。美しい障子を見たことない日本人はたくさんいると思います。むしろ多数派になりつつあるでしょう。信楽焼などもそのような傾向にあると感じてます。取り急ぎできることは、信楽のドライブインに展示されている朝鮮唐津のようなものをどうにかした方が良いと個人的には感じてます( 笑)。
では大切なことは、味わいを保ちつつ洗練を積み重ねることです。素材には各々特有の質感があり、その質感を殺すことなく存分に発揮した上で、鈍臭さや野暮ったさを削ぎ落としていくわけですが、それは具体的には形に現れると思います。古備前の名品の耳付花入などの素晴らしさは言うまでもないですが、それらを真似る際に、本当にその耳で良いのか問いかける姿勢も持ち合わせて欲しいものです。(伊賀などに比べると、備前はもったりとしているので、それが備前らしいと言ってしまえばそれまでなわけですが 笑)何もかも真似てしまうことより、全体からのオーラのようなものを感じることが重要なことであり、細部が野暮ったければ真似るべきではないです。進化とはその繰り返しなのかもしれません。神は細部に宿るのかもしれません。コンピューターテクノロジー等を除き、多くのものが(多くの人が?)今は退化の時代となってしまっているようにも感じなくもないです。
名のあるものの中にも疑問を持ち、町に置かれている名もなきものの中にも美を感じ取る姿勢が大切なのかもしれません。。教科書はあちこちにありそうです。細部を古いものから学びなおそうかな。。
写真の犬矢来の色合いがなんとも素敵 いぶし銀